世界遺産(いさん)

世界遺産(いさん)

世界遺産(いさん)は、ずっと先の未来、100年200年も先になっても、残しておく価値のあるもののことです。
小笠原(おがさわら)は、小笠原(おがさわら)だけが持つ自然が未来に残すものとして「世界自然遺産(いさん)」として選ばれています。
小笠原(おがさわら)の自然は、小笠原(おがさわら)だけの、日本だけのものではなく、世界共通で地球全体で残していきましょうと認められています。


小笠原(おがさわら)の自然を守るために

世界自然遺産(いさん)となった小笠原(おがさわら)の自然を守るために、6つの取組をしています。

  1. 植物や動物、土や土のついた(なえ)などを小笠原(おがさわら)に持ち込まない。
  2. 山や他の島に行くときには、(くつ)の裏や服、荷物に、種や小さな虫などが付着していたり、(まぎ)れ込んでいないかチェックする。
  3. 山に行くときは、歩道や決められたルートを利用し、ルールを守る。
  4. ()(ねこ)などのペットは登録して、できるだけ屋内で()うようにする。
  5. オガサワラオオコウモリやハハジマメグロといった動物や、ムニンヒメツバキ等の植物が暮らしている場所を守ります。
  6. 数が少ない生き物については、数を増やすために本土の動物園や植物園と協力しています。

歴史

今の小笠原(おがさわら)になるまで

・安土桃山時代~明治・大正

 小笠原(おがさわら)諸島(しょとう)は、戦国時代の1593年に小笠原(おがさわら)貞頼(さだより)が発見したと伝えられています。島に人が住むようになったのは1830年になってから。最初に住んだ人は、日本人ではなく欧米(おうべい)人5人と太平洋諸島(しょとう)民を含む20数人でした。明治時代になり、小笠原(おがさわら)が日本の領土(りょうど)として世界的に認められた1876年から、日本人が住むようになりました。
 大正時代の小笠原(おがさわら)諸島(しょとう)には約7,000人の人が生活していて、今よりも多く人が住んでいました。一年中暖かいので、果物やカボチャなどの冬野菜を作っていて東京等で高く売れました。海では、カツオやマグロ、サンゴを()っていたほか、クジラも()れていました。

・戦中

 戦いが激しくなった1944年に小笠原(おがさわら)に住む人々は、軍で働く人以外の全員が本土へ強制疎開(そかい)することになりました。
 日本が負けた後、小笠原(おがさわら)諸島(しょとう)はアメリカ軍が占領することとなり、疎開(そかい)した人たちのほとんどが戻ることが許されませんでした。

・昭和~平成

 1968年(昭和43年)に小笠原(おがさわら)諸島(しょとう)がアメリカ軍から日本へ返還(へんかん)されました。疎開(そかい)していた人たちが返ってきましたが、硫黄島等の島では火山などの自然環境が厳しいため、以前住んでいた人が戻ることができませんでした。いまは、父島と母島の二つの島に約2,600人の人が住んでいます。


文化

島ことば

小笠原(おがさわら)で話されていることばは、英語、ハワイや南洋諸島(しょとう)の言語や方言、八丈島や本土の言葉などが入り()じった独特の言葉があります。現在でも身近に使用されている言葉は地名や植物の古称(こしょう)があります。
今も残る地名では「コペペ」、植物では「タマナ(テリハボク)」があります。

以下、現在使われることはほぼなくなりましたが、過去使われていた言葉には次のものがあります

・プクヌイ(小港海岸):ハワイ語の大きな穴「puka nui」からこの海岸には泳いで通れる穴が二つあります。
・ロンパ(長崎)   :英語の「ロングパイント(長い岬)」の省略(しょうりゃく)形。
・セイレイ      :=仲間に入れてください(由来がまったく分からない(なぞ)小笠原(おがさわら)言葉の一つ)
・ムグル       :(もぐ)るがなまって
・フンパ       :=ヤドカリ(ポナペ語「umpwa」から変化したと言われてます)

南洋(おど)

 南洋(おど)りは、南洋貿易が(さか)んだった時代に南洋諸島(しょとう)(おど)られていた(おど)りが伝承(でんしょう)されたもので、現在「東京都指定無形民俗文化財」に指定されています。

タコノ葉細工

 小笠原(おがさわら)の伝統工芸の一つで、島に自生するタコノキの葉を煮て干すなどの加工をして材料にしたもので、小笠原(おがさわら)独自(どくじ)編物(あみもの)細工です。小笠原(おがさわら)諸島(しょとう)に初めて定住したハワイ人が作っていた敷物(しきもの)(かご)が、工夫と改良により現在のブレスレットや(かばん)、小箱などの民芸品となりました。

草木()

 アカギやモモタマナなど島に自生する植物を使って、パレオやハンカチなど草木()めで作成します。

スティールパンやフラ(フラダンス)など、新しい文物

 小笠原(おがさわら)では西洋や南方などの移住してきた人の故郷(こきょう)が持つ多様な文化が融合(ゆうごう)し、独自(どくじ)の文化が生まれ育まれてきました。
 「小笠原太鼓(おがさわらだいこ)」は、戦前に八丈島からの移住者とともに伝わったもので、全国でも珍しい両面打ちとなっています。
 最近のものでは、「スティールパン」「フラ(フラダンス)」があります。スティールパンはドラム缶から作られた打楽器で、たたく場所によって音が変わる独特の(ひび)きを持っています。
 小笠原(おがさわら)の歌と(おど)りによるフラは、ハワイをはじめとする環太平洋(かんたいへいよう)の人々が、それぞれの島を(ほこ)りに思い、その島のために(おど)り歌う姿勢を見習うことで始まりました。

伊豆諸島(しょとう)との関係

 小笠原(おがさわら)諸島(しょとう)は、北にやく700㎞離れた伊豆諸島(しょとう)(むかし)からつながりがありました。(むかし)は八丈島から人が移り住んできて、八丈島にある八丈太鼓(はちじょうだいこ)が伝えられました。これが小笠原太鼓(おがさわらだいこ)になり、島の文化として定着しています。
 戦争が終わって小笠原(おがさわら)諸島(しょとう)が日本に戻ってからは、年に一度、八丈町の人たちが小笠原(おがさわら)へやってききます。歓迎会では、小笠原太鼓(おがさわらだいこ)八丈太鼓(はちじょうだいこ)の演奏をしたりして、お互いの交流を深めています。


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