世界遺産は、ずっと先の未来、100年200年も先になっても、残しておく価値のあるもののことです。
小笠原は、小笠原だけが持つ自然が未来に残すものとして「世界自然遺産」として選ばれています。
小笠原の自然は、小笠原だけの、日本だけのものではなく、世界共通で地球全体で残していきましょうと認められています。
世界自然遺産となった小笠原の自然を守るために、6つの取組をしています。
小笠原諸島は、戦国時代の1593年に小笠原貞頼が発見したと伝えられています。島に人が住むようになったのは1830年になってから。最初に住んだ人は、日本人ではなく欧米人5人と太平洋諸島民を含む20数人でした。明治時代になり、小笠原が日本の領土として世界的に認められた1876年から、日本人が住むようになりました。
大正時代の小笠原諸島には約7,000人の人が生活していて、今よりも多く人が住んでいました。一年中暖かいので、果物やカボチャなどの冬野菜を作っていて東京等で高く売れました。海では、カツオやマグロ、サンゴを獲っていたほか、クジラも獲れていました。
戦いが激しくなった1944年に小笠原に住む人々は、軍で働く人以外の全員が本土へ強制疎開することになりました。
日本が負けた後、小笠原諸島はアメリカ軍が占領することとなり、疎開した人たちのほとんどが戻ることが許されませんでした。
1968年(昭和43年)に小笠原諸島がアメリカ軍から日本へ返還されました。疎開していた人たちが返ってきましたが、硫黄島等の島では火山などの自然環境が厳しいため、以前住んでいた人が戻ることができませんでした。いまは、父島と母島の二つの島に約2,600人の人が住んでいます。
小笠原で話されていることばは、英語、ハワイや南洋諸島の言語や方言、八丈島や本土の言葉などが入り混じった独特の言葉があります。現在でも身近に使用されている言葉は地名や植物の古称があります。
今も残る地名では「コペペ」、植物では「タマナ(テリハボク)」があります。
以下、現在使われることはほぼなくなりましたが、過去使われていた言葉には次のものがあります
南洋踊りは、南洋貿易が盛んだった時代に南洋諸島で踊られていた踊りが伝承されたもので、現在「東京都指定無形民俗文化財」に指定されています。
小笠原の伝統工芸の一つで、島に自生するタコノキの葉を煮て干すなどの加工をして材料にしたもので、小笠原独自の編物細工です。小笠原諸島に初めて定住したハワイ人が作っていた敷物や篭が、工夫と改良により現在のブレスレットや鞄、小箱などの民芸品となりました。
アカギやモモタマナなど島に自生する植物を使って、パレオやハンカチなど草木染めで作成します。
小笠原では西洋や南方などの移住してきた人の故郷が持つ多様な文化が融合し、独自の文化が生まれ育まれてきました。
「小笠原太鼓」は、戦前に八丈島からの移住者とともに伝わったもので、全国でも珍しい両面打ちとなっています。
最近のものでは、「スティールパン」「フラ(フラダンス)」があります。スティールパンはドラム缶から作られた打楽器で、たたく場所によって音が変わる独特の響きを持っています。
小笠原の歌と踊りによるフラは、ハワイをはじめとする環太平洋の人々が、それぞれの島を誇りに思い、その島のために踊り歌う姿勢を見習うことで始まりました。
小笠原諸島は、北にやく700㎞離れた伊豆諸島と昔からつながりがありました。昔は八丈島から人が移り住んできて、八丈島にある八丈太鼓が伝えられました。これが小笠原太鼓になり、島の文化として定着しています。
戦争が終わって小笠原諸島が日本に戻ってからは、年に一度、八丈町の人たちが小笠原へやってききます。歓迎会では、小笠原太鼓と八丈太鼓の演奏をしたりして、お互いの交流を深めています。